2017-03-30 第193回国会 参議院 総務委員会 第7号
批判精神のかけらも私は見られないと思います。 そういう意味で、上田会長、もう一度、映像の出所はいいですから、こういう番組が果たしてNHKが放送するにふさわしい番組なのかどうなのか、お考えをお聞かせください。
批判精神のかけらも私は見られないと思います。 そういう意味で、上田会長、もう一度、映像の出所はいいですから、こういう番組が果たしてNHKが放送するにふさわしい番組なのかどうなのか、お考えをお聞かせください。
こうした批判精神は、経済、政治、哲学、歴史、文学などの人文社会科学の幅広い学びを通じてこそ得ることができるものであります。確かに、人文社会科学の学びは、いわゆる実学と言われる学問と違い、今すぐに何か役に立つようなものではないかもしれません。しかし、単に今現在の社会的要請が高くないからといって切り捨ててしまうと、批判精神を持って新たな時代を切り開いていく人材が枯渇することにもなりかねません。
健全な保守は健全なる批判精神を恐れてはいけない。 官房長官にお伺いをいたします。 今の安倍政権のもとにおいて、精神的な自由さらには表現の自由が抑圧されている、そういうふうにお思いになりませんでしょうか。官房長官の御答弁を求めます。 個人情報保護法改正法案について御質問を申し上げます。 ビッグデータの活用そしてプライバシーの均衡、これが今回の法律でとても重要なことだ、私はそう思います。
今度、秘密保護法案などが出るとますます批判精神を失うのではないかと、余計な話ですが心配しておるので、その部分も含めて、原則、こういう法案は大事ですし、大臣の姿勢、また経済産業省の努力は多としながらも、きちっと指摘すべきところは指摘する、これが野党の役割でございますから、そういう観点に立ってこれからの質疑に臨んでまいりたい、こう思うわけであります。 まず最初に伺います。
我々国会議員も、審議会の答申を批判精神を持って吟味し、国会としての役割を果たすべく襟を正すべきだと思いました。 では、この問題はこれだけにします。 この次は、インターネットの社会病理というテーマでお聞きします。 現在、これだけインターネットが普及すると、国家、メディア、個人ともに、情報発信と情報セキュリティーへの自覚と責任が問われる時代となっています。
私は、科学の世界で批判精神を失ったら、もうそれは発展は望めなくなると思うんです。したがって、ぜひ科学技術を担当する大臣として、客観的にこのあたりをもっと検討を深めるべきだというふうに思ってございます。いかがでしょうか。
この点においては、私自身も、以前は、自公政権は社会保障を削ってばかりという、そういった批判精神を持っていましたが、やはりこういったところは謙虚な気持ちで変えていかなければいけないと思っています。 自民党の伊吹筆頭理事、私は大学の後輩になります。
組合に人、物、金を丸抱えされているために、民主党からはもはや健全な批判精神が失われてしまっているのです。国民の健全な倫理感覚から完全に懸け離れた民主党に、教育行政に携わる適格性はないと断じざるを得ません。 教育制度や教育現場を党利党略の道具として子供たちを犠牲にする民主党の大罪を我々は決して許しません。
しかし、それをやらなければまさに国民の命が守れないという中で、こういう部分を、マスコミ、野党に一因があるというようなことを言われると、やはり健全な政治は健全な批判精神の中に宿るということだと私は思うんですね。 元厚生労働大臣のこの発言についても、大臣、どうですか、見解をいただけませんか。
その一方で、新しい歴史教科書という中学校向け、つまり、幼いからもっとうのみにしやすい、批判精神が育っていない、そのレベルの子たちに、扶桑社の新しい歴史教科書というものの二百六ページ、二百七ページ、今日お付けいたしましたけど、そこを見ていただきますと、「アジアに広がる独立への希望」ということで、これ第二次世界大戦当時の、また前からのことを書かれているわけですけれども、日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインド
それから戦争で習ったこと、そして終戦になってまた別のことを習ったこと、そういうことから批判精神を身に付けるようになったとか、いろいろ、教育というのはフォーマルな、いわゆる正式の文部省という枠組みの中の教育も一つございますけれども、様々な形で子供は学んでいく。
教育基本法、現行教育基本法の一条は、自主的精神に満ちた国民の育成ということを掲げているわけですが、私も、指令を受けて何かをやるとか画一的に何かをやるということではなく、一生の中で自分の判断で物を考えられて、自分として行動できるという子供たち、国民をつくることが、民主主義の中で、批判精神も持ち、議論し、討論し、民主主義にとって一番大事だと。
知識や意義だけを教えるのであれば、これは宗教に関する関心や、また逆に批判精神は生まれますけれども、心の教育、命の尊厳さや他者に対する痛み、また自分の至らなさ、宗教的にはさんげとかざんげとか申し上げますけれども、そういうこと、おかげさまでというような謙虚な気持ち、畏敬の念、そういうものはこの感性を育てなければ生まれていかないのではないかというようなことで、この宗教的感性を大変重要に思うわけでございます
想起してみていただけたらと思いますが、批判精神を抹殺した上で皇国史観を刷り込ませた戦前の歴史教育の在り方というものが我が国を侵略戦争に駆り立てたということを。科学的検証を得てその事実、実態に適合する定義を成す、歴史教育の道理ではないでしょうか。この帰結に思いが至らないことは正に歴史への冒涜と言えます。 歴史教育における思考停止は未来に対する責任放棄であり罪である、罪ですらある。
そして、助け合いどころか、批判精神ばかり身についてしまっている。これは私は、どこか問題があるのではないかというふうに思っております。 もう一つは、教育委員会のあり方です。文科省の方々が大変いい政策を出していらしても、これが教育委員会まで行っていないのではないか。フィンランドを見ますと、大枠は国が決めているんですね。
よい言論と悪い言論を同時に人様の、国民の前に提供して、そしてその中でよいものと悪いものを見分ける力を国民が身につけていくこと、それが民主主義の基本であり、そしてよいものと悪いものを見分ける力を国民が身につけることによって批判精神が生まれてきて、そして国家権力の暴走に歯どめをかけようという民主主義本来のチェック機能が働くようになっていくのではないかと思っています。
今後は、現場も経営者も含めまして、とことんその安全のために、いつもこれでいいのかという常に問い直す批判精神を十分身につけていただかなければならないというふうに考えます。 原子力安全委員会といたしましても、安全文化をより醸成するための活動、それから情報公開による透明性の向上あるいは規制調査の見直し等を十分に検討して、原子力の安全確保それから信頼性の確保のために真摯に活動していきたいと存じます。
しかし一方、考えようによりましては、私どもが正に若手であったころ、上司に対して様々な批判も持っておったわけでございまして、そういう意味では健全な批判精神の現れとも見ることができるわけでございまして、私は両面から見ていいだろうと思っております。
組織犯罪が悪化していないではないかという主張をされる向きもございますけれども、これは、これまで暴力団を任侠の徒として容認してきた我が国の風潮に対しまして批判精神が乏しいのではないかと考えます。 また、暴力団による被害というのは実際に非常に大きいと考えております。かつては暴力団は一般市民に対していろいろ嫌がらせやおどしをする、こういうレベルの問題でございました。
もう一つは、平たんにうまくいっていますと、健全な批判精神をエリートが失ってくるということなんですね。
○伊吹委員 先ほど来、私は総理といろいろやりとりをしたのは、長い平たんな繁栄の中で失われているものは健全な批判精神であり、そして共同体への参加意識だという話をしたのはまさにこの点にあるんですよ。分権であれば何でも地方へ移していいというものではないと私は思います。そして、基本的に大切なものはやはり国がやらねばならないのです。
○伊吹委員 あと二つ大切なことをお伺い申し上げたいと思うのですが、やはり、健全な批判精神が欠けているということの大きな問題は、この財政、金融の分離の問題だったんじゃないかと私は思うんですね。